昭和五十二年八月二十一日 朝の御理解 第三十二節


女が菜園に出て菜を抜く時に、地を拝んで抜くというような心になれば、おかげがある。また、それを煮て食べる時、神様いただきますというような心あらば、あたることなし。


 金光様の信心が段々身に付いて参りますと、一応は誰でもこういう気持ちにならせて貰えますし、また形の上でもそれを行う様になります。本当に天地のお恵みで出来たこのお野菜をと思うたら、やはり拝まにゃおられないし、またそれを煮て食する時に、神様頂きますという様な心は自然に備わってくるし、また自分もそれを感ずる様になりますけれども、これがそういう心になればおかげがあるとか、または心あらば当たることなしとかというところまで頂きますが故、または地を拝む心が出来てくるということは、という様な心になればおかげがあるという、その頂きますとか、大地を拝むとかというのは、只形を覚えただけでは、言葉に出しておるということだけでは、やはり真に繋がらないです。天地金乃神様の真に繋がる、天地金乃神様の真とはまことです。天地金乃神様のこの真に繋がりますと、昨日の御理解じゃないけれども、瑞々しいまでの喜びがわいて参ります。
 これは自分でどうすることは出来ません。天地の親神様の真に通じた時です。心に瑞々しい有難い、勿体ないという心がわいてくるのは。もうお話をさせて頂いておっても、その頂き方がなんか無味乾燥な頂き方をしとる人の場合なんか、研修を例えばしておってもです。もう本当に心が乾き切っておるという様な人があります。そりゃ形の上のことは、言うたりしたりしとりますけども、それではね、天地の真、天地の芯に通じないです。「天真地心」、いわゆる天の真、地の心。ですからそういう天の真と通じる様な通う様な瑞々しいまでの頂きますであったり、大地を拝むという様な心というのは、いわゆる地心の、地の心という信心、いうならばそれが心行という形になって表れてくる。只習慣になってから、お便所にやらせて頂いたらトイレのペーパーをこうやってするとか、お風呂に入ったらタオルをキチッとこうする。それが形式化したんではおかげにならんのです。
 昨日、宮崎の川添さんから電話が掛かってきてから、もう本当に親先生おかげ頂きましてというんですよ。それが中学校に行っとります子供が、この頃丸少に参加して、もう帰って参りましたら、もう二人見るごと生き生きとして勉強もする様になり、まあ例えば先日から、海でしょうか川でしょうか、釣りに行ったと。それが三人で行って、家の子供だけが四十六尾釣ったと。もうたんびんに、いわゆる生神金光大神様、親先生と言うて、願わせて頂く。勉強する時もそうだ。で今日はなんか自転車で遠乗りをするから、お母さん電話を掛けてお願いをしといてくれと言うて参りましたからとこういうわけです。子供なりにも結局、いうならば神様頂きますという心がねあれば。それで両端にしとるとが、これをかわってくれと言う。いくら変わってやっても釣れんげな。自分が行ったところが釣れる。そして四十六尾も釣って帰りました。もう子供ながら本当に尊い体験を日々頂いておりますとこういう訳です。もう帰りましてから、私共の風呂場のタオルがキチッとなって、もう中学校ですよ。トイレのペーパーをキチッと合楽風に致します。その中学校の子供だけがそれをするそうです。こちらに居る間にお話を頂いたり、聞いたりしてからそれを実行しておるわけですね。そこから子供なりにも神様を頂くという生き生きとした心が天地に通う、心が出来てくるのじゃないでしょうかね。
 昨日は二十日ですから、吉井地区の共励会でした。あちらから帰って来られた方達が、もう本当におかげを頂いて、いつものことですけども今日もまた、新しい方達が参加されて、大変に有難い共励会だったと。そして本当に熊谷さんのお話を頂いて、いよいよ恐れ入ると思ったことは、例えば<湯桶半分>、親先生が天の神様、地の神様、そして金光様と言うて頂かれるから、私はそれにもう一つ親先生と言うて四回頂きますという話をされたそうです。私は今日の御理解は、そういうことだと思うですね。もう抜く時には拝んどるけんそれで良かというのじゃなくて、なら頂く時だけ頂きますと言えば、それで良いというのではなくて、もう理屈じゃないことが分かります。長年の秘結の熊谷さんがお便所を拝むということを頂かれた。もう本当にお便所を拝むということだけではなくて、今まではお便所に造花でも良か、ちょっと花のしるしがあると気分が良いからというのだったけれども、便所を拝むからには便所の神様。してみるとあれは便所の神様へのお供えだから、まあとにかく自分の庭の隅々にある野の草でも良いから毎日新しいのと取り替える。庭の、自分達の気分のためじゃなくて、便所の神様にお供えするという、只便所を拝むということだけじゃなくて、もう一つ次の信心が出来ておられる。
 今日の御理解はそうだと思うんですね。先生からこう教えて頂いたから、そこからまた次の練り出されたもの、いうならば行き届いたものがそこに出来てくるところに、なら長年の秘結を忘れた様に、快便のおかげが頂かれる様になったと言っておられます。瑞々しいですね。理屈じゃないです。
 昨日は高松和子さんが二度目のお礼に出て見えたわけですけれども、昼。お母さんがこの頃大変具合が悪くて、もうきつい、きつい、もうこう抱いて寝らんならん位、きつがられて。御飯は何日ぐらい頂かなかったと言うたかね。(二十日間と言う声あり)二十日間頂かなかったんです。だからきつい筈ですよね。私共でも二十日も食べんでおってごらんなさい、それはもう。湯水の様なものばっかりであったら、それはきついですよ。「和子さん、今日の朝の御理解はどげな御理解じゃったの。」と言うて、真剣に求められるから、朝の今日の御理解をそれこそ、あの瑞々しい有難さ、有難いという答えをずっとお話をしておられると大変に感動された。本当に有難いの、勿体ないのと言いよるばってん、親先生、親先生と言いよるばってん、その瑞々しい心が欠けとるもんの、なかもんのと言いながら感動が湧いて来て、いわゆる瑞々しいものになってきたわけです。もう只有難いばっかり。そしたら「御飯ば頂いてみろう。」と言い出しなさった。それで「今日は何にもないですよ。めざしか何かしかないですよ。」。私の母はめざしなんか朝から絶対に食べない。もう何でんよかけんでと、そのめざしで御飯を頂いた。そしたら和子さん昼頃になってから、「和子さんまたお腹がすいた。また何か作ってくれ。」と言われた。もうとにかく信心のおかげというものはね、いわゆる天地に通ずるというのは、瑞々しいという有難い心です。昨日それで、お昼御飯までまた頂きなさったというて、お礼に出てきた。
 だからいかに私共の心の中に瑞々しい有難さというものを、例えばなら三十二節にね、女が菜園に出て大地を拝む様なことになる。なら拝んだだけでおかげが頂けれるのじゃない。煮て食する時に、神様頂きますと言えばそれで良いと言うのじゃない。それだけなら金光様の大体御信心を頂く様になると、その位のことはちゃんと体得してしもうて、出来よる。けれども、いうならばおかげになると断言しておられるおかげにならんじゃないかね。当たることないとおっしゃるのに当たりよるじゃないか。結局ここでも天地を拝むというても瑞々しい心でなからなければ、天地に交流しない。それは瑞々しいものである。いうなら早速心行に取り組んで、いうなら中学生の、いうならば少年がです。丸少そして合楽で一週間位でしたかね。いろんな修行さして貰うて帰らせて頂いたら、早速便所の中に、いうならば合楽風になって来た、お風呂場が合楽風になって来た。魚を釣るというても、もうたんびたんびに生神金光大神様、親先生を祈る。自分も不思議で不思議でたまらない。金光様ちゃ釣れる。昨日は七人でサイクリングですか、宮崎から鹿児島の県境のところまでも行っておる。七人行くから七人の人達の名前も皆言ってお願いしてくれと、まあ行き届いたことですね。
 ですから<た>るほど子供だから年寄りだからということではないということね。私は本当に心行の伴った行が表されていく。そこから今まで例えば野菜頂きます、大地を拝む様な心の内容が変わってくる。天真地心、いうならば地の心であるという、受けて受けて受け抜くといった様な心行が、修行が出来て初めて天の真と通うのだ。新しい感動、どんなに考えても、二十日ももう本当にそれこそきついきついというその病人がです、お話を頂いて、それからもう<したから>湧いてくる感動に、それこそむせんでおられる。そしたら和子さん御飯頂いてみろうかということになって来とるんです。もうそれこそいろいろ物嫌いをなさる方ですけれども、もうそのめざしでんよかちゅうごと。そして美味しい美味しいと言うて頂かれたと思うたら、昼にまたおなかがすいたと言う。確かに金光様の御信心は嘘の様なおかげです。三人行って、両端の者は釣らんで、真ん中の者だけは釣りよる。その少年だけには、どんどん魚が四十六尾も釣れたとこういう。そういう心になればです。おかげがあると、はっきりおっしゃっとられるですね。またそれを頂きますという心あらば、当ることなしとおっしゃっておられる。そういう心でです、祈る時に、交通事故に当る様なことはまずないおかげが受けられるのです。お願いしとったばってんが、有難うございますと言いよるけれども、というてもその内容がね、地心から生まれる有難さといった様なものが、瑞々しさというものがないならば、それは当ることなしとか、おかげがあるというおかげにはふれられないということが分かります。
 それこそ湯桶半分というだけでも、皆が真似をしておられれば、おかげを受けておられますけども、なら親先生がそれを三回、天の神様、地の神様、金光様と言って拝まれることを聞かれたら、それからもう一つ親先生と言うて、四回頂くとこう言われる。それをもし信心薄き者が聞いたらね、馬鹿みたいな感じがするじゃないかと思うんですけれども、そこからです、瑞々しいものが生まれて来るんです。宮崎の川添さん、熊谷さん、そして善導寺の久保山さんのお話をさして頂いたが、この三十二節を丸暗記して、ならそげんしよりますというだけでは、おかげにも、当ることないという様なおかげにもふれることは出来ない。それには天真地心、天の真、地の心。その天の真と私共の真が通じる、交流する時に有難いものが生まれて来る。その瑞々しい心とは地心。地の心の信心が心行を基にして出来ていくおかげを頂いたら、教祖のおっしゃることが決して嘘でないという実証を、今日は皆さんに聞いて頂いたんですね。熊谷さん、川添さん、久保山さんね、嘘の様なおかげでしょうが。実証です、いわゆる教祖様が嘘はおっしゃっていないということが分かるのです。どうかして、だからその<瑞々しい有難いという心を頂くことのために心を【 】かして貰うということになりますね。>どうぞ。